戦前の合気道

 

当身7分投げ3分

合気道は、合気道開祖植芝盛平翁が創始されました。合気道開祖は、明治生まれの方で、日本古来から伝わる様々な武道を稽古されていたそうです。
戦前は合気道と言う名前は使われておらず、技の構成も、現在の稽古とは大きく異なっていたそうです。
現在の合気道では当身と言うのはほとんど使われていないのですが、当時の稽古は当身7分投げ3分と言われるほど、激しいものだったそうです。

 

指導方法の違い

現在合気道の稽古は、師範や指導員の先生が看取り稽古を行い、その後道場生が各々稽古を行いながら、個別に指導を受けるスタイルをとっている道場がほとんどです。
ところが当時の稽古方法は、っ開祖植芝盛平翁が2、3度道場生の前で看取り稽古を行うだけで、ほとんど説明がなかったと聞いています。
また開祖植芝盛平翁は「覚えて忘れろ」とおっしゃっておられたそうで、毎日違う技をされていたそうで、その技は秘伝で秘密だったと伝えられています。

 

 

戦時中の合気道

 

軍への指導

合気道開祖植芝盛平翁は戦争には反対だったものの、時代の流れから合気道は軍隊へも指導されていたようです。その当時の合気道も、今とは違いかなり実践的であったようで、その動きは直線的であり、稽古も「殴られた方がまし」と思ってしまうほど、激しく、厳しいものだったと聞いています。

 

合気神社

第二次世界大戦が激しくなるにつれて、合気道開祖植芝盛平翁は茨城県に転居されました。そして、昭和19年に合気神社を茨城県笠間市岩間町に送検されています。そして、岩間を開祖自信「合気道の産屋」と言われており、「真の武道は武農一如、武産合気の生命力生産の実践こそが原点である。」との信念に従い茨城へ移住されたと聞いています。
また合気神社の道路を挟んだ隣には、茨城支部道場があります。