合気道に試合がない本当の理由

 

試合は死に合いに通じる

合気道には試合がありません。なぜ試合がないのかと言いますと、開祖植芝盛平翁が「試合は死に合いに通じる」ということで試合を禁止したからです。
その他にも理由はあるのでしょうが、一言で言うとそういうことです。

 

ではなぜ試合が死に合いに通じいるのかと申しますと、武道というものについて考察してみれば理解は容易になることと思います。
そもそも「武」というのは、元はといえば「破壊する技」と言うことになります。
何を破壊するのかと申しますと、例えば「自分に向かってくる敵」であったり、大きな視点であれば「自国の敵」等、対象は様々です。また太古の昔に戻れば、自分たちの食料を求めるために、獲物を仕留めることも、一つの「武の姿」であったと言えるでしょう。

 

しかしこのように「破壊する技」、つまり「武」の先に生まれるものは、「怒り」や「憎しみ」等の負の感情のみです。
自分に向かってくる敵にも、仲間や家族がいます。
自国の敵にも、敵国の中には、やはり家族や仲間がいます。
太古の昔、私たちの祖先が追いかけた獲物にも、家族や仲間がいます。

 

「武」で相手に勝った立場だけで見てみると、まるで「プラスの感情」しかないように思えますが、その背景にはこのように「負の感情」が生まれてしまうものです。

 

 

本質を見失う

試合で負けると悔しいものですし、勝てるはずの試合に負けてしまうと、場合によっては恥ずかしい気持ちにもなるでしょう。また試合に勝つことで自分自身の周りからの評価が一段と上がり、気持ちのいいものです。また勝てない相手に勝てたとき、とてつもない達成感を味わえます。
つまり勝ちと言うのは気持ちのいいものです。

 

そういうことから人は、目に見える試合の結果の「勝ち」と言う面のみに、自然と集中していってしまうのです。
こうなってくると、合気道の稽古の本質である「合気道の稽古を通じて、充実した人生を送る」と言うことから大きく外れてくるのではないでしょうか。

 

「勝った人は充実しているし、負けた人は勝てるように努力するから、結果として充実するはず。」と言うことをおっしゃる人もいるでしょう。
それも事実ですし、間違いはないでしょう。競技という枠組みの中の小さな視点で見た場合にはそのようなことが言えるかもしれませんが、実生活に活かしていけるかと言うと、必ずしもそういうわけにはいきません。

 

 

型稽古の本質

古来の人が残してくれた「型」というお手本には、人類が長年培ってきた「生きる」という本質が含まれています。
試合形式をとることで、型の持つ本質よりも、試合に勝つために型の中の攻撃的な面ばかりに目がいってしまうようになります。そうすると、型を学ぶ本質的な意味がずれていってしまいます。

 

試合をすることで、大きな利点があるのは間違いない事実です。しかし試合を行わず「型稽古」に集中することには、もっと大きな意味があります。
戦って勝つことよりも、型の中に凝縮された「先人の智恵」をしっかり学ぶことで、合気道の稽古を「実生活に活かす」ことができます。試合がないからこそ、その一点に集中することができます。

 

合気道の稽古を実生活に活かす事が、今の時代に最も必要なことなのではないでしょうか。